2019.5.282年前の豪雨災害復旧、金蔵寺が再建へ

貴重な文化財を有し、1番札所として親しまれる金蔵寺再建への道のり

 

 今から2年前の2017(平成29)年6月29日深夜から30日にかけて、本市は記録的な大雨に見舞われた。過去に例がないほどの豪雨の爪痕は今も各所に残る。勝本町新城西触の通称「かみだけさん」の愛称で呼ばれる真言宗智積院の寺院、神岳山「金蔵寺」もそのひとつ。豪雨により裏山の土砂が滑り落ち、建物ごと飲み込まれ倒壊する被害を受けた。予想を超える被害の大きさから、倒壊当時から現在まで、復旧のめどが立たない状況が続いていたが、地域住民らの協力により、本堂再建に向けて工事が進み始めた。

 

 2年前に本市を襲った豪雨で倒壊した金蔵寺の本堂が、全面復旧に向けて動き出した。屋根を支える柱ごと倒壊した本堂は、再建が危ぶまれるほどの事態となった。倒壊の光景を見ていた市民は当時「もう、これは再建は無理かもしれない」とつぶやいていた。

 倒壊から2年、寺に散乱した材木類は撤去され、新たに土台から組み上げられていた。地滑りを起こした本堂後方は、工事による補強が崖の上部にまで施され、危険箇所とされる部分は横幅も含め広範囲にわたり補強工事が進む。今後は、建物本体に至る部分に着工し、復旧は着々と進められていく。

甚大な被害だった2年前の集中豪雨

 2017(平成29)年6月29日の深夜に降り続いた豪雨は、「50年の一度の記録的な大雨」となり、過去に例がないほどの被害をもたらした。この時の雨量は、1時間に110㍉を超えた。

 市内各所では、土砂災害などの甚大な被害が相次いだ。29日午後10時3分に大雨洪水警報発令、10時53分に土砂災害警戒警報発令、11時32分に避難勧告を発令。避難所を10箇所指定し、内5箇所に19世帯54人が避難した。この時の2日間の被害件数は500件近くに達した。

 この時の大雨で、深夜に金蔵寺の裏山が崩れ、水を含んだ土砂が本堂へ迫った。香椎總持住職は、事前に避難し惨事を逃れたが泥は本堂へと流れ込み、本堂は背中を押されたかのようにゆっくりと傾き始めた。翌日、雨はやんだが午前10時ごろに屋根瓦の重みに耐えることができず倒壊した。けが人はいなかった。本堂は倒壊前から数十秒ごとに建物内部から「ピシリ、ガタガタ」と柱が軋む音やガラスが割れる音が続き、危険な状態にあった。

 倒壊は、本堂後方にある土砂が、地盤の緩みと重みに耐えきれず地滑りを起こし、建物の背部と屋根にかけて大量に押し寄せたため。土砂は建物を支える柱などをへし折った。約10年前に新たに修理された瓦の重みも影響しているとされた。

 倒壊した本堂には、県指定有形文化財の本尊・銅造如来型坐像(朝鮮高麗時代の作)や、1400(応永7)年銘の鰐口、1412(応永19)年銘の梵鐘が安置されていたが、無傷で運び出され難を逃れている。

由緒ある金蔵寺の再建へ

 金蔵寺の境内には、壱岐四国八十八ヶ所参りを起こした、中原慈本を伝える等身大の石造の地蔵尊や1番札所と奥の院があり、昔から多くの参拝者が訪れている。また、写真家の篠山紀信が撮影した、同寺の銅像釈迦誕生仏が『朝日グラフ』に掲載された。歴史や文化価値とともに、市民にとって想いが深い。

 同寺の由来は、元弘・正慶・建武(1331~1338)の戦乱で、比叡山を追われた僧が本宮寺を頼って来島し、山内の所々に坊舎を構えたことから始まる。権現山にはこれらの僧が建てた庵が6ヶ所あり「六坊」と呼ばれた。その後、真言宗の僧が住むようになり、壱岐真言宗の惣録として栄えていった。

 本宮寺は1872(明治4)年に廃寺となる。その後、1905(明治38)年に、当時、壱岐商高前の若宮神社の南にあった若宮山金蔵寺の住職が本宮寺に入り、神岳山金蔵寺として受け継ぎ現在に至る。

 同寺の周辺住民は「ようやく再建に向かうことができた」と胸をなでおろす。先祖代々守り継がれてきた寺は、檀信徒たちの熱い思いで、新たな道を歩み始めた。