2018.10.22島民との調和は図れていたのか
今週、問い合わせが殺到した件がある。筒城浜キャンプ場付近で開催された縄文祭についてのものだ。物事には良いも悪いもあり、各自の見る角度や方向によって理解や解釈が変わる。良い部分では本市で開催の野外イベントでは、ステージや動員数、さらに来島者数も抜きん出た規模で、誰も真似ができないほどの交流人口拡大や観光振興につながること。しかも主催のHappy氏は本市観光大使で過去のコメントにも「交流人口と移住者の促進への力になりたい」などの意気込みを語っている。
本市にとっては感謝すべき開催になるはずが、本紙に届く問い合わせは否定的なものが占めた。この意識のズレは1面記事にも記した「観光大使として適任だったのか」や「島の文化や伝統、さらには信仰がひっくり返ってしまうのではないか」「何がおきているのか周知されていない」などの不安要素からだ。
壱岐の島は一説では神道の発祥と言われ、月読神社は長年にわたり島民が守り受け継いできたものだ。また島内各所にある神社や祭神なども歴史と伝統とともに島民に信仰されてきた。いわば「触れてはいけない不動のもの」として大切に扱われてきた。
しかし縄文祭の運営関係者らは、独自のやり方と考え方で進め、一部の島民との間で話し合いや調整はあったものの、全島民への配慮や協調はあったのか疑問が生じる。イベント時の音響や参加者利用の航路予約状況、さらには市民への周知や行政の協力体制など、配慮があったとは思えない部分が苦情になっているのではないか。
先に物事には良いも悪いもあると記した。今回の全てが悪いとは思わないが、運営側は最低限の地元との配慮や協調のもとでやらねば、独りよがりの身勝手になりはしないか。主催者側の良かれと思っての行動が活きるのは調和があればこそ。
古からの日本は、和の心を以って生きてきた。日本人の精神のルーツだ。新興のスピリチュアルを否定しないが、少しは古の教えも考えの隅に置いてもらいたい。
また観光大使任命についても考えねばならないきっかけにもなっている。一部のネット情報には「壱岐を新たな宗教的聖地に作り上げようとしている」とある。真実かどうかは今後の成り行き次第だが、氏が一般人以上のものではない今、市民や行政がとやかく言うことはできない。人権にも関係するからだ。しかしこの先、もしも宗教的な進展がある場合はどうか。現在のブログなどの内容では、可能性は皆無とは思えない。
その可能性がある中で観光大使の役目は、壱岐の宣伝特派員として沿うのか。政教分離で考えればギリギリのラインだ。壱岐市観光大使設置要綱第3条に「大使の任期は設けない。ただし本人から辞退の申出があった場合はこの限りでない」とある。観光大使は、市長が適任として任命したからには本人が辞退せねば半永久的に続くことになる。
縄文祭主催のHappy氏が行う壱岐の発展に寄与する意思や行動を否定するものではない。ただ壱岐の伝統的な文化や伝統等への影響や変化、さらに観光大使としての任命責任などは、今後考えていかねばならないと市民からの問い合わせで強く感じた。
市民や行政、来島者ら壱岐に関わるすべての人が和の心と精神を重要視すれば多くの問題点は解決する。壱岐を愛する気持ちは皆同じだからだ。
最後に縄文祭の取材を終えて苦言を一つ。イベントは予定終了時刻の午後11時を大きく越え、深夜0時半まで続いた。周辺には音響が鳴り響き続けた。参加者が楽しみたい気持ちは自由だが、約束を守るのは最低限の社会ルールだ。影響を受ける周辺住民のことを真摯に考えるべきだ。(大野英治)