2021.2.09報道の役割は市の「広報」ではない

 先月26日に開かれた市議会定例会1月会議は、市内で感染拡大した新型コロナについての質疑に集中した。その中で、植村圭司議員が「今回の市職員によるコロナ感染拡大について、なぜ記者会見を開かないのか。市民への説明責任は果たしたのか」と白川博一市長に対して問うた。今回のコロナ感染拡大の要因となった市職員らによる大人数での会食について、医療現場が危機的な状況を招いたことや、市民生活に多大な支障を来した結果などの理由から、市長ら三役の給与を3か月間1割減給で責任を取るということに関連する質疑だった。

 議員は「記者会見を開かず、市民に対して説明不足だった。今回のコロナ感染拡大の詳細や真相もわからないまま採決はできない」と、減給案を突っぱねた。これに対しての市長の答弁は、報道する我々記者の耳を疑うような内容だった。

 市長は「記者会見とは、広く市民にお知らせするひとつの手段だと考えている」と述べ、その一環として「今回は、防災無線放送で日々の状況を伝えた」と会見は不要と述べた。さらに市長は議員に対して「質問の意味が分からない」と言葉を返した。

 市長は、議員の質問の何が分からないのか。逆に、なぜ質問の意味が分からないのか問いたい。この認識の乖離(かいり)は一体何なのか。記者からすれば、議員の質問は何も特別なことを問うているようには聞こえないのだが。むしろ、要望しているのは世間一般に行われる、政治家とメディアが必要に応じて聞く会見と何ら変わらないのだが。

 この市長の答弁をそのまま解釈すれば、新聞やテレビなどの各報道は、市の広報的役割だと認識していると受け取れはしないか。要するに、当紙を含めた島内新聞や大手新聞は、市にとっての広報、すなわち「広報新聞」だという意味に受け取れる。「必要な情報は市が一方的に出すから、新聞などの報道はその内容をそのまま掲載してくれ」となる。

 また、市長は「記者会見がなければ、取材に来ていただきたい。いつでも答える」とも述べた。しかし、会見と取材は意味が違う。取材は、記者が個別で行う場合が多く、ある意味で密室の会話になる。取材記者と相手側の関係性や考え方ひとつで、偏った独自解釈が起きないとも言い切れない。

 一方、会見は広く開かれた場であり、報道各社が集まり、さらにはテレビなどのメディアも放送する。欲を言うなら、原則として会見をそのまま編集せずに生放送で流し、記者らの質問も一切編集しないのが望ましい。これらは持論であり、他報道から異論はあろうが、少なくとも今回のコロナのように多くの市民が注目する内容であれば、独自取材よりもまずは会見が優先だ。記者は事案の判断や審判はできず、しない。可能な限り知り得た情報を公表し、市民が考えるための情報を提供することが最大の役割だと考える。

 市長が述べた考えの先にあるのは、市にとって都合の良い情報しか公表せず、不都合な情報は隠蔽するという危険性だ。まるでどこかの国のように、情報規制された社会となるのではないか。市民には必要な情報は公開されず、市の都合による一方的な情報公開のみの中、正常な市政運営は可能なのか。

 少なくとも当紙に関しては、市の「広報新聞」との役割の考えは一切ない。もちろん、市の新たな施策やイベントなどの告知、表彰や業務提携などの話題は記事にするが、市政に関しての疑問や不適切な事案があったとすれば、遠慮なく記事にする。

 日本新聞協会の見解では、「情報が氾濫する現代では、公的機関が自らのホームページで直接、情報を発信するケースも増え、情報の選定が公的機関側の一方的判断に委ねられかねない時代とも言える。記者は、公権力の行使を監視するとともに、公的機関に真の情報公開を求めていく社会的責務を負っている。国民(市民)の知る権利に応えるために、記者会見を取材の場として積極的に活用すべき」とある。

 現代は、インターネットによる思い込みの誤報や噂も瞬時に飛び交い、事実を明らかにするため、記者会見の必要性は高い。この状況からも、市長が言う「記者会見とは、広く市民にお知らせする一つの手段」の認識は改めるべきであり、間違った認識であると進言する。(大野英治)