2025.7.14現市議会採決の4年間を振り返る
大きな判断を下した3つの問題から見える市議会議員の考え
現市議会は、2021年8月1日投開票で現職14人、新人7人の計21人から現職12人、新人4人の計16人が当選した。その後、2人の議員辞職があり、昨年4月14日、市長選とともに欠員2議席を巡る市議補選を経て、2人が当選。現在の市議会になった。この間の4年間、市議会審議には大きな判断をせねばならない課題がいくつもあった。その中で特に重要視せねばならない審議は、「議員定数16人から14人への削減案」「郷ノ浦町に建設予定だった認定こども園」「へき地保育所閉所に伴う柳田保育所の方針」の3つであろう。市議会と行政の方針、民意をくみ取り、市議会はどのような判断を示したのか。今一度振り返りたい。※議員定数削減案は社説に掲載。次期市議選候補予定者は4面に掲載。
認定こども園建設は正しい判断だったか
2022年6月の市議会6月会議で市は、郷ノ浦町に認定こども園建設の計画案を上程し、提案からわずか2週間ほどで市議会は「建設に賛成」と判断した。
議長、委員長を除く賛成した議員12(赤木貴尚、土谷勇二、清水修、植村圭司、市山繁、中田恭一、樋口伊久麿、森俊介、中原正博、鵜瀬和博、小金丸益明、山川忠久)。反対3(山口欽秀、武原由里子、音嶋正吾)。
同月、市議会採決前に当紙は、建設予定地周辺が土砂災害特別警戒区域であることを指摘。さらに、周辺道路では交通事故が多発している事実も掲載した。このことに不安を持った地域住民や保護者らは、建設計画の再考を市と市議会に要望。その中で、複数の疑念が生じた。
同園建設と運営を進める事業者と、ある議員の間で癒着が疑われる建設地選定の疑義。地域住民などへの説明と納得が必要となる住民説明会の不備。ところが、市は県に提出した建設計画を記す協議書で、地域住民との調整状況を空欄のまま提出。さらに、同協議書には、土砂災害特別警戒区域隣接などの「危険地の有無」の欄に「有」と記載。市は、危険地と知りつつ住民への説明不足のまま計画を進めた疑いが残った。
結果的に2023年3月、事業者は同計画から撤退。同月、工事着工に至っていないにも関わらず、市は着工済みとして予算計上していた事実が発覚。国と県への不正報告の疑いがあがった。
これら問題は、議案があがった2022年6月当初、市議会がきちんとした調査と検証さえすれば起きなかったと思われる。市民にとっての安心安全を考慮せず、議案上程から採決までわずか2週間で決めた安易な採決だった。
柳田保育所閉所、民意とのずれ、検証不足
3月末で閉所した柳田保育所も市議会の判断が問われる問題だった。
昨年3月、柳田保育所の一時存続を求める市民団体が発足。同団体は、市に対し「認定こども園の計画がなくなったにも関わらず、議論もなく、へき地保育所の閉所を進めているのは市民の声に耳を傾けているとは言えない。へき地保育所にはまだ在園児がおり、一方的な閉所は許されない」との考えを示した。
同団体は、柳田保育所一時存続のために署名を開始、市民から約500筆を集め、市に提出した。その中で、住民説明会の不備を訴え、その後、篠原一生市長は柳田地区で数回にわたり説明会を実施したが、住民側は「市は一方的に進めている。住民が何を言おうが、方針を変える考えがない」として、納得には至らなかった。
市が方針を進める根拠の一つに、市こども子育て会議から「柳田・志原保育所閉所に関する答申があった」旨を主張。しかし当初、答申の書面は公開されず、市から同会議に審議を問う諮問の存在も不明だった。市は、「答申のホームページ掲載に手違いがあった」と理由を述べるが、現在も真実は不明のままだ。
市との話し合いが平行線のまま進展がないことから昨年9月、市民団体は市議会に対し「柳田保育所の一時存続」などを求める請願書を提出。同月の市議会9月会議で市は、柳田・志原保育所の閉所に関する議案を提出した。
市議会は、柳田保育所の一時存続を求める請願と、閉所する議案という難しい採決を求められた。ところが、市議会は両案可決という判断を示し、市と市民に対して矛盾を生む事態になった。
採決は議長を除く15人で行われ、柳田・志原保育所の閉所に賛成した議員は8人(樋口伊久麿、中原正博、山川忠久、植村圭司、土谷勇二、豊坂敏文、市山繁、赤木貴尚)、反対した議員は7人(松本順子、武原由里子、山口欽秀、山内豊、清水修、音嶋正吾、中田恭一)。
一方で、請願に賛成も8人(松本順子、武原由里子、山口欽秀、山内豊、清水修、音嶋正吾、中田恭一、市山繁)、反対も7人(樋口伊久麿、中原正博、山川忠久、植村圭司、土谷勇二、豊坂敏文、赤木貴尚)。
一時存続の案に賛成、閉所の案にも賛成という矛盾した判断に、市民団体は困惑した。この結論で、今後の方針に頭を悩ませたのは市であり、やり場のない憤りを感じたのは市民団体だったのではないか。